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『ゆきいろ』感想

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えらい今さら感があるゲームかもしれませんが、しかしですね、
・正直に言うと驚いてる
・久っしぶりにエロゲで泣きまくった
僕が言いたいのは要はこの二つです。


さて、ねこねこソフトというと「なんだかんだいっていつも同じようなゲームを作ってる」と言われてしまうところがあって、実際エロゲー批評空間でもそういう指摘はされていて、いや例えば『みずいろ』と『ラムネ』と『サナララ』と『そらいろ』と『ゆきいろ』のヒロインとお話の正しい組み合わせを述べよみたいな問題出たらなんか一つ二つ間違ってしまいそうな気もするくらいなのですが(そこに『ナギサの』や『ナツメグ』もぶち込むとさらに難易度アップ)、しかしその「なんだかんだいって同じさ」と「それでも異なるさ」の絶妙な割合によるいつもの安心感とそれでもなお(当たり前だけど)出てくる意外性が、それ故にさらに輝いてみえるのが良いのであって、そして『ゆきいろ』はその辺が爆発的に素晴らしいと思うのです。要するにマルシナリオの話です。「みずいろシステム」という、子供時代のお話がまずあって、そこでの選択肢の結果によって、学生時代である現代編のお話やそもそもの人間関係・さらにはキャラクターの性格にまで違いが生じるというねこねこソフトお馴染みのシステムがあるのですが、それがねえ!!『ゆきいろ』すげえのよ!!こう来るとは思わなかったのよ!! ネタバレにならない程度にほのめかすと、SFとかシュタインズゲートとかそういった類のものが入っていて、ねこねこソフトがそう来るのがまず驚いたしそれで成功しているのもまた驚きなのです。そして泣きまくってしまったのもそこです。あとマルの過去編のあれです。てゆうかこんなの泣くやん。誰でも泣くやん。反則やん!!って言いたくなるレベル。

ということで大変にオススメです。片岡ともさんもクリア後のスタッフルームで語っておりましたが、今回は過去編が非常に長くて濃密で濃厚で、そしてその過去編が大変にたのしい。単純にたのしい。だってですね、よく考えると過去編というのは、小学生男子になれるってことなんですよ。小学生男子に……なれるんですよ!! 小学生男子になって、小学生女子と仲良くしたり、世話焼いてあげたり、世話焼かれたり、小学生男子っぽく女子にぶっきらぼうになったり、小学生男子っぽい身勝手さや保身に走るとこもあったり、でもたまにはきちんと女子に優しくしたり、女の子のピンチの時には小学生男子なりに持てる力を振り絞って必死に助けて、そして現代編で成長した彼女がそのときの自分のことを「ヒーロー」と思ってくれていたりとかねえ……そういうのが今回は長い尺とって書いてあるからてんこ盛りなんですよ! 実は小学生男子になれるエロゲというのは貴重です。なにせ登場人物はどんな見た目であろうと18歳以上の世界ですからね。しかし、しかし過去編なら、18歳未満が大手を振って出てきても何も問題ないのです。そしてこのゲームはその過去編をがっつり描いてるから素晴らしい。俺達は小学生男子になれる……なれるんだ!!

『ゆきいろ』は過去編が完全に共通ルート代わりになっていて過去編終わるといきなり個別になる、というのも面白いです*1。「過去が未来を定める」というのはみずいろシステム共通の要素でありある意味そういったものがこのシステムの思想(として付随してしまう)でもあるのですが、今回は過去編が共通ルートで現代編が個別ルート、つまりその辺がそれをガッチガチになっていて、過去でマルを選んでたらマルルートだけ、過去で樹奈を選んでたら樹奈ルートだけしか未来がないという、もう徹底的に「過去が未来を定める」という作りになっています。みずいろシステムが俺たちに教えてくれたのは「過去になんとかしてないと現代で無理」ということでもあるよなあ……と幼なじみとかいない僕はもう常々思ってしまうのですが、それを今回はこの上なく顕現しているのです。しっかしですね、『ゆきいろ』の最も素晴らしいのは、それを何だかんだで(マルルートの)最後の最後に否定してもいるのです。そう、過去が未来を決定していると思っていたからこそあの人は苦しんで停滞していたのだし、過去が未来の”全てを”決定しているわけではなかったからああいう結末になったのです。勿論、そもそも過去に二人が出会わなければこの未来にすらなかったわけで、そういう点で過去が未来に影響を持っているのは確かです。幼なじみとかいない俺らが今から幼なじみを持つことが不可能なように……! ただし、それが全てを決定しているのではない。過去に離れ離れになったからって、過去に失ったからって、これから先もずっと離れ離れになり続けるとか失い続けるとか決定しているわけではない。そこには自分の行動と、意思と、巡り合わせ、わずかな運――掛け違えたボタンを掛け直すだけのものがあれば、そこを越えることができる。そういったことを描いていて、だからこそこれは「みずいろシステム」の自己批評であり総決算的でもあるのではないかと思います。



以下個別シナリオの雑感(ネタバレあり)

ちとせ

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通称中ちゃん。まさか三つ子の真ん中が中ちゃんで、上と下が上下ではなく立ち位置が左と右なんで左ちゃん右ちゃんで、そういうあだ名の使い方を親友である深雪が普通にやってて言われてるほうも普通に受け入れてるってすげえよ!めちゃくちゃなあだ名で呼ばれるエロゲキャラ選手権やったら上位にランクインするんじゃないでしょうかねこの子たち……。そして右ちゃん左ちゃん大変に良いキャラしてます。

平たく言えば、負い目を(勝手に)負ってる左ちゃん右ちゃんがちとせに対して超過保護的になってる、そしてちとせ自身は自分に自信がなく意思をはっきり表に出すような子でもなく、そうではない自信に満ちて活発な右ちゃん左ちゃんの二人にコンプレックスを持っていて、さらに作中で言及されてるように、優しすぎる性格ゆえに自分の意志を貫くことによって、誰かに迷惑を掛けたり傷つけたりすることを恐れてしまう。だからこそ右ちゃん左ちゃんの過保護さを断れなかった。それを断れるようになった、自分の意志を貫けるようになった、というお話です(平たく言いすぎ)。まあ他人の意思と自分の意思が相反するものであれば、当然どちらかの意思を尊重しない=意思を拒絶する・傷つけることになるわけでして、それゆえにちとせちゃんは右ちゃん左ちゃんに対してああだったのですが、右ちゃん左ちゃんの間の中ちゃんという子でない一人の自分として見てくれた主人公に対して、右ちゃん左ちゃんの間の中ちゃんという子でない一人の自分であるために・なるために、二人の意思を尊重しないということを選んだ、選べた、そういうお話です。
こうあらすじにしてしまうとあっさりシンプルですが、実際のところはちとせちゃんの可愛さと右ちゃん左ちゃんのキャラの面白さ、前述したような彼女たちの心の中のあれこれが彼女たち自身を規定して自縄自縛に陥らせてるようなところもあって(その辺すごくウナトミー的でもある)楽しさと心地良さとちょっとの心地悪さが味わえるシナリオでした。あと多くのシナリオで共通しているけど主人公が結構子供なんすよね。ただし結構リアルなやつ。保身第一に考えたり恥ずかしいとか照れるからでやるべきことやらなかったりとか思考が子供だよなぁ……でも高校生男子くらいでこれというのはリアルな思考回路という感じでもあってその辺身につまされるよなぁ……みたいな。その辺が全体通して良くも悪くもではありました。
あと先輩シナリオはそんなものなかった。

あきら

子供の頃に「女の子はおしとやかなのがよい」と言われておしとやか始めたり主人公が料理できる女の子の方がよいといったら料理始めたりとか、あるいは主人公と仲が良い周りの女の子の真似を思いっきりしてみたりとか、そういう素直さが溢れてるんですよこの子は!そしておしとやかの結果があの謎のダウナー系キャラだし、料理始めた結果まず最初にやったのがさくらでんぶでハート作ることだったりと何か少しズレがあるところも非常に可愛い。そんな感じです。

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それはそうと全国のお兄ちゃんエロゲーマーなら分かって頂けると思うのですが「兄がやってるゲームを隣で見てるだけ」のこれだよこれ!感ったらないです。特に何があるというわけではないですし、一緒にゲームをやるというわけですらないのですが、しかし”一緒に時間を共有している”、そして”それ以上でも以下でもない”、これこそが兄妹の特権というか友人同士では為し得ない、恋人同士では物足りない、兄妹だからこそそれでも満ちたり得る、そういう時間がこれなんですよ!と私は力説したいわけでございます。

樹奈

シナリオライター早狩武志。個人的に『群青の空を越えて』は自分の中のオールタイムベストでも上位に入るほどのトップクラスのベストエロゲなんですが、しかし『恋ではなく』や『ハーフボイルド・ワンダーガール』などは世間的にも賛否両論というか好むか嫌うかがはっきりした作風でありまして、正直僕なんかは特に後者は読みながらざっけんじゃねー!!死ね死ね殺す!!とかなりましたし。『ハーフボイルド』が好きだった方も嫌いだった方も、お読みになられた方なら一定数はそういう反応を示す人間がいるだろうということはご理解頂けると思います。まあNTRだのなんだの言われますが、要するにアレは読んでるこちらに元々戦ってすらいないのに敗北感を与え、元々得てなんていないのに喪失感を与える、そういった類のものでありまして、『恋ではなく』もその類縁にあたるものであるわけです。そんなわけで僕はこの樹奈シナリオはどうなることかと思ってたのですが、しっかしこれですよ。大絶賛したくなるものだったのですよ。『恋ではなく』もはじめからこうしてくれたら良かったのに!!などと僕なんかは思ってしまうようなものに少なくとも途中までは仕上がっていたのです。

ある意味では前述した作品たちの「女の子の方を主人公にした」バージョンとも言えます。女の子が悩んだり苦しんだり、迷ったり自分で自分を縛ったり自分で自分を諌めたり自分で自分を罰したり……とかそういうのがてんこ盛り! 簡単に言うと樹奈の中身を全部さらけ出してくれるわけで、しかもこの子基本的には自縄自縛系ですからね、自分で決めたことだからこそ自分が縛られる、自分に嫌われたくないからこそ自分を律する、自分が自分であるために自分の気持ちや心を隠す、そういうところをまるで樹奈を主人公にしたように(実際本来の主人公は樹奈の言動に反応する機構みたいになっとるし)丁寧に丹念に描かれているのであって、それで最高なのです。私たちは樹奈のことがよくわかるし、だから私たちは樹奈に共感できるし、つまり私たちは樹奈になれる。

……にも関わらず、いやだからこそ、告白のシーンあたりから急激に描写の丁寧さと丹念さが掻き消えてプレイヤーの理解力と共感力が試される……というかそれに委ねられたような描写に・シナリオになっていくのはなんとも言えません。特に二人の関係が「言わなくてもわかるだろ」みたいに描かれる(てゆうか作中の二人が実際にお互い大事なことは明言しないで「言わなくてもわかるだろ」って感じですし)あたりが。ある意味というか率直な言い方をしてしまえば、プレイヤーに説明する気のない・強制的に理解と共感を促す独りよがりな描写・文章と言ってしまってもいいかもしれません。樹奈ひとりのことはその先も延々と描き続けられていくのだけど、主人公が絡んで二人のことになると途端に描かれ方がそういったものになる。そういう描写でも、俺たちの中の樹奈に照らし合わすことによって俺たちなりに理解することが出来るのですが、同時に私たちと一緒だった樹奈がその時から消し去られていく。しかしそれはそれで正しいというか、プレイヤーの理解を置き去りにした独りよがりな描写が続いていくということはつまり、僕たちプレイヤーが彼女たちのことを理解と共感という建前を持って独りよがりに分かったつもりになっていくことへの抵抗や皮肉なのかもしれない。それまで精緻に描かれていたからこそ存在した樹奈への共感と同一性が薄れていくわけですが、そもそもの”それ”が幻ではないかと。たとえば主人公が樹奈の悩みに的外れな見当をつけていた、つまり彼が(そこにおいては)幻を見ていたように、たとえば樹奈のマルへの遠慮がある意味幻というか、樹奈が勝手に作り上げていたマル像が幻であったように。

あとその、この絵柄でこういう話をやるというのはですね、根本的には合ってないと思うのですけど、それ故に頭の中に残る染みのようなしこりが逆にこの話に合っていると思うのです。そもそもお話自体が、樹奈の中で自分自身で決めていたりそもそも何かを掛け違えている――たとえばですね、樹奈の中で大きな意味を持ってる「あの日の誓い」の文面そのものは「ずっと友達」「ずっとマルの味方」「たとえ樹奈に好きな人が出来てもマルを気にかける」であって、健治を好きにならないとか健治を取らないとかそういうのではないわけです。拡大解釈をするとそういうのになる(マルの健治への想いを察すると)ですけど、樹奈はここでず~~っとその拡大解釈をし続けている――というしこりがずっと樹奈の頭の中に染みのように残っているからこそこういう話が出来ているという、ある種バランスが崩れた上だからこそ成立している話であって、だから絵が、もっと言えばねこねこソフトというメーカーのカラーが、お話に完璧に合っているものではないというのは逆にこのお話においては良い意味でプレイヤーに不安定感を与えることになると思うわけです。

マル

もう既に上で書きましたがとにかくラストです! いや途中も面白いですし、特にMMCとかすげーいい味出して楽しい青春感盛りだくさんですし、なんか「しててもおかしくない」からHしちゃうみたいな流れ、お互い好きとか付き合うとか言ってない・やってないのになんかしててもおかしくない二人がしてもおかしくない状況になったらからする、みたいな二人の関係もね、要するに好きも付き合うももうとっっっくに過去編の時点で実質においては達成済みであって(実際に雪の上にだいすきは書いてたし)、だからそういう「しててもおかしくない」で「する」というこの関係がね、ものすごく良いのです。これぞ俺たちの欲した幼なじみと十年、冬。

では幼なじみと十年離れていた世界線ではどうだったか、というのを描いたのが小マルから石田さんのところであって。 たとえ時間は巻き戻らず、やり直すことは無理だとしても……掛け間違えてしまったボタンならば、一つ一つ外して……また最初から掛け直せば良いだけ。 作中で語られてたこういうことに真摯に向き合うからこそ救われるのです。全ての可能性に救いはあるし、やり直しはできなくてもまた最初から一つ一つやっていくことは出来る。これまで数多あったみずいろシステムの、それゆえに生じる問題点、「過去が未来を決定する」ということに対する一つのアンサーです。”そうではなかった過去”の、だからこそ”こうならなかった”未来でだって、また最初から一つ一つやり直すことは出来る。

しかし札幌に来た石田さんの前に訪れた季節はずれの猛吹雪は、その直前に「空に六花の住む町」と題字が出てきたように、六花さんの石田さんの気持ちを汲んだ悲しみと応援したいというエールに見えて、これこそが六花さんの存在証明なのかは分からないけど、いずれにせよここには一つの奇跡があったわけで、つまり過去に掛け違えたボタンをまた掛け直すには奇跡のようなものが必要だということを表しているかのようであって。あるいはそのような行為そのものが奇跡であるとも言えて。この辺の、要するに「過去は未来を決定するわけではないけれど、過去は無価値でも無意味でもない」というあたりのバランスがみずいろシステムの辿り着いたところなのではないだろうか。そもそも、―――この最後の一連のシーンを見てしまうと、そもそもの人の出会いや歩みそれ自体が奇跡であると思えるわけだし。

しっかし石田さんルートの続きがやりたい見たいとは心の底から思いますね。それはもう『ゆきいろ』ではないからここでは(このゲームの中では)やらないというのはよく分かるのですが。どこか何かで書いていただけないかなぁと願ってしまいます。

*1:と「ゆきいろ」の特徴っぽく言っちゃったけどみずいろとかそらいろでもこういう作りでしたっけ?正直よく覚えていない…